海の「もしも」は118番(海上保安庁)
http://www.kaiho.mlit.go.jp/joho/tel118/index.htm
カヤックをやっていて「いつかこの時が」と常々思っていたが...
といっても、僕が遭難したのではない。
溺死者を発見してしまったのだ。5月の話だが。
海上保安庁の「118番通報実績」によると、「間違い電話等」がなんと99.2%もある。僕はファーストシュートがゴールだったわけだ。
118番通報実績(海上保安庁)
http://www.kaiho.mlit.go.jp/118/tuuhoujisseki.htm
僕は、その間違い電話で迷惑をこうむったことがある。
「漂流者がいるようだ」という極めてアバウトな情報が寄せられ、カヤックをやっていた僕がそれに間違われ、ヘリ、救難艇、さらに水上オートバイからも追いかけられ、立体的に追い詰められた。あれにはビックリしたわ。
話を戻す。
こういう時は必ず予感があるものだ。
この日、行きに1羽、帰りに2羽、ウミネコの死骸を海上で見、「人間の死体を見つけることにならなければ良いが...」と思って、視点を先に移動させたところに浮遊物が目に留まった。
見てから意識したのではなく、意識してから見て、見つけた。
良くあるんだ、こういうことが。
海上に見えているのは、腰の部分。
溺死者はうつぶせで、両手・両足をまっすぐに伸ばしている。
男性で、まったくの普段着。マリンスポーツやマリンレジャーで海に来た人のかっこうではない。
カヤックでひと回りした後、誤認ではないことを確認して、iPhoneから118番をコールした。
コールを受けたのは女性。僕は簡潔に状況と位置を連絡したのだが、電話を切った後、なぜか同じ内容を聞き直してきた。
それからしばらくして、今度は消防から連絡があり、まったく同じ内容を報告することになった。
いったい何をやっておるのだ...?なぜワンストップで済まないのだろう。
結局、消防のレスキューチームがやって来るまで40分ほどかかった。
遺体は潮流によって西方に流れて行くので、僕はそばに付いていなくてならない。
偏光サングラスをしていると、光の加減で海中まで良く見通せるタイミングがある。
そういう時に、溺死者の全体像がクッキリと目に入ってくる。
この40分はなかなか辛いものがあった。
もっと早く来てもらえないものかと思うが、すでに亡くなられていると報告したので、それほど急がなかったのかもしれない。
上陸すると、今度は警察署から電話が入る。
そうだ、第一発見者として事情聴取に応じなければならない。
初めて取調室というところに入ったが、なんとも狭くて圧迫感がある。
取り調べられる方は心理的に相当大変だろうな、と想像した。
警官とやりとりしながら、調書を作っていく。
住まい、家族、仕事、カヤックをいつから、どのくらいの頻度でやっているとか、その日の目的とか、とにかく細かい。
それは良いのだが、「声はかけたのか?」というひと言は、ちょっとショックだった。
「え。生きてたんですか...?」「いえいえ」という軽い感じの会話だったが、ズシッとくる。
「生きてたのか?」「生きてたのか?」「生きてたのか?」
「声をかけていれば?」「声をかけていれば?」「声をかけていれば?」
という思いが渦巻く。
遠目に見てから連絡するまで5分以上は絶対にあった。その間、ずっと顔は水面下にあった。それだけの時間、呼吸できなければ助からないはずだが、もっと早く発見していれば...などと色んな思いが浮かんできてしまった(この思いは今も消えない)。
警官が「海上で発見したあと、どう思ったか」と聞いてくる。
「亡くなられた方の成仏を願う気持ちでいっぱいになった、ということですね?」と誘導してくる。
「え。成仏っていうのはないですよ。とにかく早く水からあげて、家族の元に返してあげて欲しい、という気持ちでした」と答える。
とにかく「成仏」という言葉に抵抗感が強かった。
あの「全体像」が目に焼き付いているから。
警官は、「わかりました」と言い、続けて、「それで今は、亡くなられた方の成仏を願う気持ちでいっぱいなんですね?」と言ってくる。
いったいなんなんだ...?
これ、調書の締めの言葉の常套句のようなのだ。
その言い回しは、殺人の加害者の被害者に対する感情の表現ではないのだろうか...? 僕はただの発見者だ。
違和感を感じつつも「まぁそんなところです」と答えたから、調書にはそのように書かれた。
「ムシャクシャしてやった。今は反省している」なんてのも、こうやって取り調べで誘導された結果なのだろうねぇ...。
それにしても「成仏」とはなんだろう。そして、「成仏を願う」とは...?
「成仏」とは「結果」だと思う。それを他者が願ってどうにかなるものなのか。
自分だけでは分らなかったので、後日まわりに聞いてみたところ、「非業の死を遂げられたわけだから、客観的に見て成仏は難しい。だからこそ、周囲の者は、成仏を願う、のではないか」という答えを得られた。なるほど、そうか。
亡くなられた方の姿は、まるでさっきまで生きていたようだった。
海に危険なことをしに行く、という服装ではなかったから、事件、事故、自殺のいずれかだろう。いずれであっても、とても残念だ。このひと言につきる。
以降、「海での死」を強く意識するようになった。
先日小学校で烏帽子岩のことを話した時も、ラストに少し時間をとって、ヘッドランドの消波ブロックの危険性、海での落雷の危険性についてアピールしてきた。
学校の先生には、「競泳よりも着衣泳を教えた方が良い」と提言してきた。
もちろん、僕自身「事故じゃ絶対死なない」という思いをより強くした。
皆さんも十分気を付けて下さい。
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